昔は来るのが当たり前のように毎年必ず来ていた場所。
神社のまわりの
砂利の上を歩く感覚もこの坂道も
松の木の匂いも
変わらなくて
気づくのは
木や緑の多さ
ただ
こんな自然にさえ
心が 解放されて
体が軽くなる
自分の体が
自由を感じる
ただの一日だけの
限られた 自由のように
私が今住む東京という土地は
私をこんなにも窮屈にしてるのかと 思い知らされる
大きく息吸って
足が心地よい感覚で歩幅を作る
出雲は
私にとって
大切な 心があったかくなる場所。
日ノ御埼。
なつかしい サザエを焼く匂い
日本海。
昔はお兄ちゃんや従兄弟たちと登った灯台に、ひとりでゆっくりと登る。
岩と海の深い色は
毎年泳いだ日本海の海の色。
お決まりコースの出雲を巡って
ドキドキしながら
5年くらい?来ていなかった おじいちゃんちへ。
もうこの世界にはいないおじいちゃんの家は あの頃とはすっかり変わって
みすぼらしい雰囲気
全て片付けられていて 残っていたのは アルバム。
おじいちゃんが大切にしてきた大量のアルバムも
おじいちゃんが死んでからは持ち主がいなくなり、
整理仕切れなくて残った大量の写真はついにはもうすぐ処分される
大切な写真は
お母さんたちが既に整理していたけど
それ以外はもう持ち主がいない。
数冊のアルバムをめくると、
幼ない私やお兄ちゃん、時代を感じる両親の写真、
私には歴史の教科書でしか見たことがないような白黒の戦時中の写真。
お母さんは、もう整理し終わった写真だから処分すると言っていたけど
私はそこから
なつかしい写真と
歴史を感じる写真を
抜き取って
大切に持ち帰った。
いつか 自分に子どもができたら
私のおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの写真を
見せてあげよう
そうおもった。
写真だけが
ひっそりと残ったおじいちゃんの家は
昔
みんなで過ごした
大切な思い出を
私の中にる鮮明に蘇らせた。
木の階段も
古いお風呂も
ひとつひとつのお部屋も
どこにどんな家具があったか ぜんぶ思い出して
色褪せた写真に
カラフルな思い出が次々と 浮き上がってくるように
感情が込み上げてきて 涙が出た
人が生きていくこととは
はかなくて
歴史とは
こういうことかと 偉そうに実感してしまう。
おじいちゃんもいない出雲へは
次はいついくのかわからないけれど
私にとっては、思い出の詰まった、大切な場所。