3月11日からの想い




$夏沙のブログ

■2011.3.11

日本中の人に、世界中の人に、忘れられない一日となった。
私は、大宮でピースボートの説明会を開催している最中だった。

帰宅難民となり、
大宮にできたばかりのワンルームの小さなボランティアセンターで仲間たちと一夜を過ごした。
駅でつらそうにしていたおばあちゃんを狭いワンルームに呼んできて
一緒に夜を明かした。

その夜、悲しい言葉しか伝わってこないラジオの音が響くそのワンルームで
おばあちゃんと、皆で過ごした夜は忘れられない。

おばあちゃんは、もう何十年も前に亡くなったおじいちゃんの命日だった。
お墓へ行った帰りに、地震に逢って、帰れなくなり
私たちと出会った。

夜の11:40頃、「おじいちゃん」が亡くなった時間に
皆で手を合わせて、そして東北の人々のことを皆で想った。

おばあちゃんには、子供も孫もいなくて
若い人たちを話したことがない、
若い人たちとこんなに話せたこと、
若い人たちに助けてもらったことがうれしい
と、涙していた。

眠れぬ夜を
一緒に過ごした。
数日後、皆にお礼のお手紙とお礼にみなで食事でもと、お金が届いた。

すぐに災害支援のお金に回させてもらい、
お返事のお手紙を書いた。
そしたら今度は、皆にたくさんの味噌漬けと、手紙が届いた。
心が温まった。

■2011.4.13

慣れてきた、と思う。

新聞に、地震と原発関連のニュースばかりなのに慣れてきた。
放射能を気にしていたけれど、春のきもちぃぃ空気に、
放射能を気にしないことに、慣れてきた。
節電モードで、都内の暗さに、慣れてきた。
職場が、災害緊急支援ボランティアのひとたちと、支援物資でいっぱい、
そんな日常に慣れてきた。

いつかは、支援も終わって、3月11日以前の日々に戻っていくのかもしれない。
もしかしたら、関西や、九州の方では、人によっては、関心も薄れてきているのかな?とも思う。

NGO ピースボートにいるから、毎日は災害支援一色の中での日々だけれど、
普通に会社に通うひとは、通常の生活を取り戻しているのかな、とも思う。
私も、余震にはずいぶん慣れて、眠気の方が勝つほどになったし、
いろんなことに慣れていき、
いまこの状況を日常として受け入れることにさえ違和感はあまりない。

でも、
取り返しのつかない悲劇は
ひとの心を深く傷つけて
大切な私たちが生まれ育ってきた大地と
空気と
海と
水と
すべてを
汚染した

ひとは なぜ
自分たちを傷つける世界を作るのだろう

なぜ、争い、
なぜ、自分たちへの脅威を 自分たちで作るのだろう
経済にも政治にも詳しくない一般市民の私には

とうてい

理解

できない。

新聞の記事や
写真や
テレビや
メディアはいつだって、世界中の悲しみを伝えているはずなのに

なぜ、更なる悲しみに加担する世界を
私たちは止められないんだろう

自然災害が起これば、世界中が支援の声を上げてくれるのに
世界は複雑すぎて
到底理解できない
なんて思ってしまうけど

理解できない私たちにだって、
自分たちが吸う空気が、自分たちが飲む水が、自分たちが食べる食べ物が、
自然で安全で健康的であってほしいと願う

仕事があって
家族が元気で
大切な人が笑っていてほしいと
願う。

単純なはずなのに。

世界中の、 自然災害の被害に遭われた方へは 皆で力一杯の支援をしよう。
世界中の、不平等な社会の仕組みの中で
苦しんでいる方へは、 その仕組みを理解しようとする心を持ち、その社会へ「NO」を叫ぼう。
そして、
世界中で、隣のひとと争いがあるひとは、
もう一度、思いやりの心と、対話する余裕を、取り戻そう。

世界中の皆様、日本にたくさんの支援をありがとう。

■2011.5.18

本当は私は声に出したい

私も、被災地ボランティアに行きたい
ピースボートスタッフじゃなかったら
私はきっと
被災地に行っていると思う
なんて
絶対言ってはいけない言葉だと思っていたことを
書いてみる

ピースボートは石巻へ支援を始め
過去参加者、過去スタッフ、クルーズ申し込み者を始め、たくさんのひとが関わり
大きな動きとなり
メディアにもたくさん取り上げられている。
そんなピースボートで専従のスタッフをしている私は
直前的に被災地に関わることができずに
もやもやした気持ちがつきまとう。

ピースボートは、世界に船を出し続けているから
だから いま、
石巻にこれだけの支援を可能にした。

だから 私がいま、
ピースボートの船を出すという仕事と最大限向き合って、頑張るということは
直前的ではないけれど
被災地を支えることにつながっている。

とは、頭ではわかっていても 感情はついていかない。

現地に行っているスタッフが
「絶対に行った方がいい。」と力説している姿を見て
「行きたくても行けないひともいる。行きたくても、行かずに後ろから支えてるひともいる。」
そう思ったら なんとなく 悔しさが込み上げた。

悔しさという感情にまた矛盾を感じた。

■2011.6.10

女川町へ行った。
両親が最近、個人で支援物資を集めて被災地の仮説住宅へ届けていた。

今回は私も参加した。
車にたくさん物資を積み込んで
女川町の仮説住宅へ。

仮説住宅の人へ声をかけてまわると、
人がすぐに集まってきた。
食料、水、調味料、食器、のれんなどはすぐになくなった。

被災地の状況については、ニュースや新聞や、
ボランティアで行ったひとたちが皆それぞれに感想を書いているから
耳にしていると思うから、あえて
どうだったなどと言いたいことは、ない。

ただ、いままで、世界の貧困や社会問題、自然災害に対しては
客観的な意見を述べてきたなぁ と心から思った。
この最悪の自然災害を目の前に
私はただ無力でちっぽけで ため息がでる。

大切なひとを大切にしたいだけの人生は素晴らしいのに
どうしてこんなに社会は、歴史は、人々は、複雑にできているんだろう。
複雑なのは東京なのか?

やっぱり私には東京という土地での生活は合わないなぁ
と つくづく感じながら生活しているなと気づく。
いろいろと 感じることのあった3ヶ月。
私はやはり、いま、自分の仕事をこなしていこうと思う。

■2011.6.14

たくさんのことを考えながら過ごしてきた3か月間だった。
身近な人がたくさん、石巻へ行った。

3か月前までは単純なピースボートセンターだった私の居場所は
今は「ピースボート災害ボランティアセンター」と共存している。
悩んで悩んだ。

ほんの数日行くかの話だけど
行くか、行かないか。すごく悩んだ。
行こうと思った。
けど、行かなかった。
後悔しないほうを選べ
と、私の隣に座っている、大先輩は言った。

私にはいま、とっても大きな責任を抱えている仕事がある。
心から、それを達成したくて
その仕事のために今私はここにいる。

頭ではわかっていながらも心はついていかないと思っていたことが
心に染みてきた。
私は私が今やるべきことを、ここでやろう。
愛すべき仲間たちがたくさんいる。

そう思ったら
自分が今任されている「仕事」に
とても誇りを感じながら
選んだことを、後悔しない自信に気づく。

ある人は言い訳と言い
ある人は自分の選ぶ道に自信を持てと言い
ある人は何も言わずに何かを物語る表情だけ向けた。

人生は選択の連続で
何を選んでも後悔しないように生きていくこと。
それを常に頭において
忘れちゃいけないことは忘れないように
しっかり前見て行こう。
笑って、いよう。