日本の夏を想う2




私にとって、夏と言ったら、おじいちゃんが住んでいた出雲での思い出が大きい。
子どもだった頃は毎年夏休みになると長期で出雲に親戚が集まって
おじいちゃんを囲んだ楽しい夏休みを過ごした。
出雲は母の生まれ故郷で、
私が2歳の時になくなった祖母に残されたおじいちゃんが一人でお醤油とお味噌工場を経営していた。
おじいちゃんの家に着いたときの、お味噌とお醤油の臭いは今でも思い出せる。
出雲の田んぼは、私の心の中にいつまでも日本の夏として残るきれいで忘れられない風景。
青々と育った田んぼの向こう側に、黄色い2両の一畑電車がのんびりと走る。
家と畑と青空が、日本の夏の風景を作り出す。
日本海の海は、きれいだった。
素潜りの得意だった兄と、海の生物に詳しくて海の遊びを知っていた父について
私も一緒にサザエや魚を捕って楽しんだ。
海から帰ると、直行するのが、おじいちゃんちのすぐそばにある「くろだ」というかき氷屋さん。
まさに世界で一番おいしいかき氷だと私は今でも思っているくらいに、おいしい。
イチゴ、レモン、ミゾレ、宇治金時
どれを頼んでも、くろだのおばちゃんが煮込んだ特性シロップが
たっぷりと真っ白のふわふわのかき氷にかかって登場する。
金時のあんこも、抹茶も、おばちゃんが煮込んだ世界一!
お盆の時期には、灯籠流しをした。
従兄弟と一緒に手作りの灯籠を作って、ろうそくを立てて、川に流す。
たくさんの灯籠があったかい光を灯しながら、ゆらゆらと流れていく。
忘れられないのは、小学生だったいつかの年に作った灯籠の背が高すぎて
橋のところで引っかかってつぶれてしまったこと。
すごく切なかったのを忘れられない。
おじいちゃんちには、私の家族と、母の姉、弟家族が集まるから、とってもにぎやかになる。
夕食はみんなで分担して作って大宴会になったり、近くの食事屋さんに全員で行ったり
おじいちゃんが孫だけを連れて回転寿司に連れて行ってくれたりした。
おじいちゃんの家、家の周り、出雲の街を今でも鮮明に覚えている。
夏にしか行ったことがないから、出雲はいつも力強い太陽と青い空、夏の出雲で、
おじいちゃんは白い涼しげなワイシャツ姿。
海老名から出雲まで、車でドライブして来た私たちが帰っていくときには、
毎年同じように、おじいちゃんは家の外まで出て、にこにこと手を振り続けてくれた。
その瞬間が、年を重ねるごとに寂しさを増していったのを覚えている。
いつかこんな日が来なくなる、ということを、年を重ねるごとにわかっていったのだと思う。
大人になるにつれて、毎年の夏を出雲に長期で行くことが減っていった。
高校生になったら、出雲に行くよりも、地元の友達と遊んでいたかった。
高校2年生になったら、アメリカに留学をして、出雲に行かなかった。
おじいちゃんと手紙のやりとりをしたのは、その年が初めてだった。
心配しているおじいちゃんに、手紙を書くと、何度も返事が返ってきた。
それまで、おじいちゃんと向き合って真面目に話をしたことがなかったから、手紙で初めて、おじいちゃんとちゃんと話をした気がした。
そして23歳になった今年の夏。
出雲の夏は遠い思い出になっている。
1年半前におじいちゃんは亡くなった。
おじいちゃんの家も、お醤油工場も、からになった。
それ以来、出雲を訪れる機会はないまま、ウガンダに来てしまった。
母からのメールで、出雲のお家を、取り壊すことになったと告げられた。
私は、ウガンダに来て、日本の夏が恋しくなって、そして思い出されるのは、出雲での夏だった。
もう、過ごすことのできない出雲での夏。
おじいちゃんは、何年も前に、孫全員に
「自分が死んだときに墓参りにくるように」とお金を入れた通帳をくれていた。
ウガンダに来る前に、行けば良かった、と後悔しても遅かった。
最近の私は、出雲に行く暇もない夏ばかりだったけれど、
ウガンダの2年が終わったら、絶対に、おじいちゃんがくれたお金で、出雲に行こう、と心の底から思う。