6年分の思いを告白します




やっと。書きます。
夏沙、せっかくウガンダ行ってたのに辞めちゃってなにすんだろ・・
と思われていたんではないでしょうか。
20日に、ピースボートのスタッフになりました。
これが、私のやりたかったこと。
誰がなんと言おうと、心の底からやりたかったこと。
私の6年分の思いを、綴ります。長いです。
本当にめちゃくちゃ長いので、読んでくれるというありがたい方は覚悟してください★

ピースボートを知ったのは
中学生だった頃、学校に行く前に朝ご飯を食べながら新聞のテレビ欄をみていて
たまにそのテレビ欄の広告に
ピースボート地球一周98万円!
と、その広告を見ながら
私は地球一周の船がどんな国をいくのか、一つ一つの国をチェックしていたんだ。
高校1年生の時。
幼なじみの花ちゃんが、ピースボートに乗った。
彼女は高校に進学しないと自分で決めて、
自分でピースボートに乗ると決めて、
それで地球一周をした。
帰ってきた花ちゃんと会って

地球一周分の写真を見せてもらって
エジプトで買ってきてくれたラクダの人形をもらった。
その時の感情を忘れられない。
すごくわくわくしたのと、悔しかったのを覚えてる。
私も、地球一周したい!!!
でも私は高校生だったし、花ちゃんがやりのけたことを真似したくないとか変に思って
違うことをしよう!でも、なんか、でっかいこと、しよう!!
と、漠然と思っていた。

当時、私の家には

交換留学でベトナム人の女の子がホームステイに来ていた。
その年の9月11日。
信じられないような事件がニューヨークで起こった。
ベトナムの子が留学をしていたAFSという団体は、世界中に高校生を送っていたけれど
9.11が起こったその年は、アメリカに留学に行きたいという日本人が減った。
そこでAFSからベトナムの子を受け入れていた我が家に声がかかった。
高校生の娘さん、アメリカに留学しませんか?と。
当時、思っていた高校に入学できて
青春の高校生時代を過ごしていた私にとって
行きたいような、でも今の生活を無くしたくないような。
相談したのは地元のベストフレンド。
「夏沙が日本にいないなら、私も日本にいる意味ないよ!私も留学する!!!」

勢いのみのアドバイス。笑

それで、一緒にAFSの留学へ行くための面接を受けて、

受かって、彼女も同じ時期に留学することが決まった。

17才の1年間を私はアメリカのテキサス州、プレインビューという小さな街で過ごした。
留学生活はきつかったけれど今となっては私の基盤を作った大切な時間だったと心から思っている。
それに、今でも繋がっている、タイ人とグリーンランド人の大好きな友達が出来たこと。
それだけでも留学して良かったと思える。
(この話も書きたいけど、超・長くなるのでまた今度。)
帰国して18才になった。
一応、何かやり遂げた。
でも、その後の目標が何もなくて落ち込んだ。
そんなときに幼なじみの花ちゃんとまた会って、
またピースボートの地球一周の話になったんだ。
そのころ、110万円くらいだった地球一周。
お金ないじゃーん・・・と思っていたら
花ちゃんから超・超ステキな話が飛び出てきた。
花「ボランティアスタッフ制度というのがあってね、ポスター貼ったり、仕事を手伝うと
   手伝った分だけ船賃が割引になるんだよ」
私「!!!!!えっ、えっ、え?
   じゃあさ、じゃぁさ、超・超頑張ったら、全額分割引にもなるの!!??」
花「うん」
まじか!

やるしかないじゃん。
ポスター貼ったら地球一周??なんて素敵な話なんだ。
そんなおいしい話がこの世の中には、ちゃんとあるんだ!万歳!
やるしかない。決めた!
地球一周する!!!!
・・・
というのが私とピースボートとの出会い。
出だしから長くなってしまったけれどこの後更に続きます。
その数日後、私はポスター貼りたいです!という覚悟で
「ピースボートセンターよこはま」を訪れたのです。
当時、なんだか薄暗い怪しいビルの10階にあったピースボートセンター。
10階に降りつくと
部屋が何個か合って、その一室がピースボートセンターだった。
ドアがしまってる。
緊張するけど、チャイムを押すしかない。
ぴーんぽーん
中から坊主の男性が出てきた。
眠そうだ。

しかもその坊主の人しかいない。
大丈夫かな。
私はポスターを貼りたいんです。
私が来た趣旨を伝えると、坊主の男性は
ピースボートの地球一周が10分くらいでうまいことまとまっているビデオを見せてくれた。
感動。
乗ります。
地球一周します。
ポスター貼らせてください。
いろいろと説明を受けていくうちに、ポスターを貼るためには、
初心者講習というものをやらないとダメなことが分かった。
すぐにでも貼りたかった私はがっかりしたけれど、
センターの中ででも出来る活動を手伝って、
その日から私の地球一周130万円の割引をためるためのボランティアスタッフ生活が始まった。
ピースボートセンターの中で出来る作業は、
当時、一時間で1000円の割引が付いた。
130万円分ためるには、
130万円÷1000円は、1300時間。
1300時間÷一日5時間やったとしたら、260日。
ポスターの場合、3枚で1000円。
つまり、3900枚で、130万円。
いける。と思った。
高校三年生。
高校生活に魅力を感じなかった。
ポスターばかり貼っていた。
ピースボートセンターばかり通っていた。
学校帰り、旅行先、どこに行くにも持ち歩いた。
ピースボートセンターでは、
同じ夢に向かう人たちと出会った。
高校生だった私が一番若くて
いろんな人がいたから、出会う全ての人がおもしろかった。
毎日が、楽しかった。
大学に行く気もしなかった。
でも、アメリカに行ったことの反動で、「アジアの事を勉強したい」と思っていたから
親孝行も兼ねて大学に進学。
でも受験当初から大学1年生を大学生として過ごす気は更々なかった。
入学早々、先生のところに行って
私は今年ピースボートに乗りたいんです。
だから授業に出られなくなります。
ピースボートからレポートを出すので単位ください
と、かなり無謀な感じでアタックした。
幸い、うちの大学はそういったことに関心が強くて
ピースボートなら乗ってきなさい。
帰ってきてちゃんとレポート出せば単位出します。
と言ってくれる先生が何人かいた。
その先生の授業ばっかり最小限で取って
大学1年目をほぼ私はピースボートの時間として使った。
ポスター貼りは、得意だった。
商店街へ行って、一軒一軒お店に入って交渉する。
快く貼らせてくれる人もいれば、瞬間的に拒否してくるひともいる。
ピースボートに対しての意識も様々で、
頑張ってね!と応援してくれる人、

訳がわかんない団体はお断りだ!と跳ね返してくる人、
俺も乗ろうかなと資料請求してくる人、

本当に様々。
断られることは最初辛かったけれど
ポスター一枚一枚が確実に地球一周という夢に向かっていると思うと
ポスター貼りは全然苦じゃなかった。
むしろ、いろんな街と出会っていろんな人と出会って
めちゃくちゃ有意義な時間だったと思う。
割引額がどんどん貯まっていくと同時に
ピースボートセンターが私の最大の居場所となっていた。
仲間がいて、夢があった。

地球一周したい、その思いで始めたボランティアスタッフ。
でもそんな中で、
私の頭ん中ぐらんぐらん振り回してきた出来事があった。

ピースボートが始めた
「イラク緊急医療支援募金キャンペーン」。
国際協力には興味があった。
けど、自分に出来る事なんてわかんなかった。
東京にあるピースボート本部で始まったこの募金プロジェクト。

武力衝突が続いていたイラク。

医療品が不足し、それに対して緊急で募金が始まった。
これなら私にも出来るかもしれないと思い
ピースボートセンターよこはまの仲間たちに呼びかけ、
横浜駅前に立って募金活動を始めることにした。
はじめは、恥ずかしかった。
募金活動をしている人を見たことはあったけれど
自分がやるとはおもっていなかった。
でも、だんだんと恥ずかしさはどうでもよくなり、変なテンションになってくる。(笑)
緊張しているうちはなかなかお金を入れてもらえなかったけれど
なにかが吹っ切れて大声を出せるようになって
自分の心にある気持ちを声に出して街中に叫ぶことが楽しくなったとき
お金が、入り始めた。
私は集まったお金を袋に入れて東京のピースボートセンターに
自分の手で持って運んだ。
すごく重かった。
一人ひとりが入れてくれたお金は
10円だったり100円だったり、ちっぽけな小銭。

でもそれが集まって、どっしりとした重みを手に感じたとき
あ、こうゆうことか。
やればいいんだ。
ちっちゃいことやって、続けて、少しずつの力だけど集まれば、こうして形になるんだ。
と、その重みを感じながら、思ったんだ。
それからは、自分が行動をすれば社会は変わるんだと、単純に思った。
だから、とりあえず何か出来ることをしようと思い、
ピースボートの地雷廃絶キャンペーンに関わることにした。

これも、基本的には、募金活動だった。
地雷廃絶というのは、お金がないと進まない。
だから、集める。
地雷で苦しむ人がいない世の中になるように、募金活動をする。まずは、それだけ。
単純だった。
横浜駅に立って、声張り上げて、そうすればお金は集まった。
毎週、一緒に駅に立ってくれる人を集めて、活動した。
続けることは、もう、根性でしかなかった。
結果、私が地球一周に旅立つまでに100万円というお金が、募金活動だけで集まった。

ただの根性が、形になった。
そしてポスター貼りの成果は私の地球一周130万円という目標を達成し、
大学1年生の10月、ついに、大学サボって、ついに、念願のピースボート地球一周の船旅に出発したのです。
地球一周の話はこれこそ長すぎるのではしょります
フィリピン
ベトナム
シンガポール
セイシェル
ケニア
南アフリカ
ナミビア
ブラジル
アルゼンチン
ウシュアイア
チリ
イースター島
タヒチ
ニュージーランド
オーストラリア
パプアニューギニア
と。
ああ、全部伝えたいけどやめときます。
全部伝えたいけど書けないくらいいっぱいあるんだな~と思ってください。
帰国後、ピースボートが企画するカンボジアのスタディーツアーに参加した。
自分が一生懸命募金活動をし、
紙の上で学んだカンボジアの現状を
自分の目で見て、体で触れた。
国際協力の矛盾や
メディアが伝えるものと実際の現地とのギャップ、そういうものを感じた。
それから地球一周中の南アフリカで。
国際支援のあり方について、ちっぽけな自分なりに考えるようになった。
で、で!!!
帰国後。

地球一周の夢叶い。

そしたらまた、達成した後の次の目標が無くなったことで落ちこんだ。
大学2年生の一年間は、大学の勉強とバイトに専念した。
カフェのバイトと、グループホームのバイトを掛け持ちして
授業は、4年間で取らなければならない124単位のうちの60単位を取った。
ピースボートで地球一周した私は
自分がいかにちっぽけで
いかに無知な存在だということを目の当たりにした。
くやしいけど、今の自分じゃ何もできない。
もっと、勉強して、なりたい自分に近づこう、そう思った。
そしたら私には大学というベストな環境が整っていた。
しかも専攻はアジア。
民族、国際関係、社会、NGO・・・そういう授業。

大きな目標を成し遂げてしまった後の生活は地味で
なんだか物足りなかったりもしたけれど
地に足付けて
勉強することが楽しい、と初めて思うことが出来た一年間だった。
大学3年生の一年間は、
単位交換制度というのを利用して
沖縄大学の国際コミュニケーション学科に入った。
同じ制度で沖縄に来た友達3人でルームシェアをしながら
沖縄生活を満喫した。
出会ったもの全てを大好きになった。
自分の好きなことをして
余裕のある学生生活を送っていた私は、
自分の将来や夢やそういうことに向き合う時間を最大限に作った。
自分は何がしたいんだろう。
自分は何を求めているんだろう。
自分はどんな人生を送りたいんだろう。
って。
そしたら出てきた答えは簡単だった。
ピースボートスタッフがやりたい。
それは、ピースボートと関わり始めた頃からずっと暖めていた思いだったから。
でもその時の私はまだ、ピースボートスタッフがやりたいと突っ込んでいける覚悟もなかったし
もっと成長した、もっと満足した自分になってからやりたい!

そう思っていた。

そんなとき、あるピースボートスタッフと再会した。
彼は、ピースボートセンターもない沖縄でひとりでピースボートの活動をしていた。
彼と私は、私がピースボートセンター横浜にいた頃、
私がお客さんで、彼が私の担当者、という関係だった。

彼とまた出会ったことで
私はピースボートともう一度関わるようになった。
はじめは、彼が募金活動をするから手伝ってと私に声を掛けてくれた。
募金なら任せてくれよ!!
と思い、活動した。
やっぱりピースボートが好きだったし
なにか社会に対してアクションを起こしていたいと思っていたし
しかもそれをピースボートでやりたいと思っていたから
超ナイスタイミング。
一緒にピースボートの活動を手伝うようになった。
ピースボートで活動していく中での魅力は、人との出会いが最大だ。
それから、いろんな社会問題と向き合えること。
沖縄の基地問題を、沖縄の仲間と一緒に勉強した。
自分が沖縄に来た意味を感じた。
そしてその秋に出発した
ピースボートの地球一周クルーズの最初の寄港地が沖縄で
みんなでエイサーの練習をして船を迎え入れる準備をして
沖縄に船が来た。
大好きな大好きなピースボートの船が沖縄にたくさんの人を乗せてきた。

平和を運ぶ船。
そんな船が沖縄に来てそしてそこから世界中を旅しに出航していった。
感動した。
もうここで、私の心は完全に、決まっていた。
スタッフをやる!!
もう、明日からでもやりたかった。
でもね、20年以上生きていたからこそ、幸いなことに、冷静になる、ということを知っていた。

相談したピースボートスタッフには

今でなきゃいけないりゆうは?
今、スタッフとしてじゃないとどうしても出来ないことがあるのならやったほうが良いと思うけど
何で、今、ピースボートじゃなきゃダメなの?
と言われた。
どうしてもやりたかったけれど、やりたいという熱い想いしかなかった私に
たしかにそのアドバイスは的確で、
学生という立場で、しかもピースボートの世界ばかりしか知らない立場で
今でなければならない理由はないかもしれない
そう思って、スタッフになるのは延期した。
大学を卒業したらやろうと思った。
それで私は、その時、船に乗りたくて関わっていた訳じゃなかったくせに
たくさんお手伝いをしていたから割引はかなりたまっていて
それなら、お金の貯まった分だけ船に乗るという名案を思いついてしまった。

旅が出来る!
そしたらまたナイスタイミングで、
2月に出航する船の最初の寄港地が台湾だった。
ちょうどいい。3月に沖縄から荷物を全部実家に送って
沖縄を出るついでに台湾まで船で行こう。
それでピースボートに乗って割引のたまった分だけ旅をしよう
と決めた。
3月。
沖縄から同じ船に乗る仲間と台湾まで先に船で行き
そこからイタリアまで、ピースボートで旅をした。
2度目のピースボートは、楽しみ方を知っていた分、心おきなく楽しみ切った。
イタリアから大学の授業登録に間に合うように急いで日本に帰り、
最後の学生生活が始まった。
船で出会って付き合った彼との時間。
それからバイト。
それから大学、卒論。
それから、自分の将来設計。
そんな時間を過ごしていた。
もう数年、ピースボートがやりたいとは思っていたけれど
その世界しか考えてこなかった自分の選択肢を
少し広げてみようと思って
会社をひとつ、それから青年海外協力隊を受けることに決めた。
受かったらその時に考えてみよう、そう思った。
まず受かったのは、会社の方だった。
就職するならここ!という会社一本だった。
最後の面接で社長と話したときに
ここで働いてみたいと思った。
協力隊は、倍率が高くて
もういっそのこと悩みたくないから受からなければいいと思っていた矢先に届いた合格通知。
派遣国は第一希望で出していたウガンダだった。
ものすごく悩んだ。
ピースボート、就職、協力隊。
もちろん一番やりたかったのはピースボートだったけれど
せっかく受かった自分のチャンス、違う世界を知るためにも
飛び込んでみても良いんじゃないか
そう思った。
そしたらやっぱり、就職ではなくてウガンダ2年間という選択をしていた。
行きますという紙を提出し意思表示はしておいて、
その後また悩めばいい。そう軽く思っていた。
でもどんどん時間は過ぎて、
技術補完研修のお知らせが届き、同期の仲間が出来、
2ヶ月間の訓練が始まり、出発まであと10日となり。

それでもその間、ずっと悩んでいた。
本当にこれでいいんだろうか。って。
でも、その時私には、ピースボートスタッフをやる勇気がなかった。
ピースボートをやるだけの自信がその時に無かった。
だから、ウガンダに、行った。
頑張ろうと思ったし
何か得ようとも思った。
そしてウガンダでの生活が始まり。
ここからは以前のブログに書いたことに繋がっていくんだけど。
配属先のこと、
自分の人生のこと、

恋愛模様・・・

たくさんたくさん悩んで出した結果が
帰国してピースボートスタッフになるということだった。
初めてピースボートセンターを訪れてから6年。
この間何度も何度もピースボートを仕事にしたいと思ってきた。
でも
何度も覚悟が出来ずに
今じゃない、とか違う世界を知ろうとか思って
先延ばしにしてきた。
タイミングは、自分で作らないとないと思った。
今の自分だったら、自分が理想とするピースボートスタッフを目指せる自信がある。
今なら、声を大にして、ピースボートがやりたい。ピースボートでどんなことがしたい。
ぴーすぼーとじゃなきゃだめなんだ!!
って言える。
そう思った。
そしたら、もう、帰国するしかなかった。
ウガンダで無理矢理任期を全うするということ少しも魅力を感じなかった。
私は私の納得のいく場所で
世界や社会に対してアクションを起こしていたい。
そう思った。
ウガンダから帰ってきてしまった事は
ネガティブに捉えられてしまうこともあると思う
でも私は今、辞めて帰国したことは自分にとってベストな選択だったと思っているし
いやその前に
悩んで悩んでウガンダに行って、それでも悩んで悩んでいた時間がもったいなかったとも無駄だったとも絶対に思わない。
行って良かった、ウガンダという国にお世話になって、心から感謝している。

そして
もう、今度こそ、今まで一番やりたかったことを
思いっきりやっていく時。
というわけでした。
本当に長くなってスミマセン!!!
どうしてもこの思いを書きたかったけれど
そしたら簡潔になんて書けるわけもなくて。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとう。